齋藤薫の馨る女 EX
2018.6.24

人に見せない部分こそ美しく!【齋藤 薫さん連載 vol.75】

日本では、まだまだ認知度が低いデリケートゾーンケアやアンダーヘアの処理。やりすぎは問題ですが、“身だしなみ”としてお手入れするのは“内側からにじみ出る美しさ”を作るのに必要。表面だけを取り繕って飾らない、そんな女性にならないための術を薫さんが語ります。

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下着を毎日取り替えるか否か?それ自体より、下着がキレイそうな女に見えるかどうか!?

「下着にお金をかける女が美しい」…… 昔そんな提案エッセイを書いたことがある。
言うまでもなくそれは、「見えないところにお金をかけるのが、エレガントな人」との法則から生まれた提案だった。

「表以上に裏が大切。本当の贅沢は裏にある」。
これはココ・シャネルの残した言葉だが、服の裏地にお金をかけるのが本当の贅沢……という言い方が、とても垢抜けた響きを持っていた時代があったのだ。思えばそれは一流ブランドが絶対の価値を持った時代。だからそれは、表面だけを飾ろうとする日本女性のオシャレの仕方への警告だったのかもしれない。「下着にお金をかける女が美しい」という命題も、同じような警鐘から生まれたもの。でも今や、この言葉には大きな違和感を感じる。下着にとりわけお金をかけるのは、むしろ、女であることを殊更に強く意識しすぎるタイプだったりしてしまう時代。もちろんこれは趣味の範疇(はんちゅう)、どんなにお金をかけても構わないのだけれど、その一方で下着界は、今や完全に機能性を競う時代になっている。高機能で心地よく、そして安価……そんな下着をあえて選ぶ方が、むしろ垢抜けているという流れに明らかに変わってる。

代わりに議論されたのが、下着は毎日取り替えるべきかどうか? 正直ひと昔前まで“毎日取り替えない女なんているはずがない”というイメージだったのに、何人かの女性タレントが「私は毎日取り替えない」「なんで取り替えなきゃいけないの?」と言ったことから、にわかに是非がクローズアップされた。

ところがここで単純に「下着を毎日替える女が美しい」という提言は立ち上がらなかった。当然すぎる事だから、ではなく、“下着と女の関係”にはもっと深いものがあるからなのだ。“下着を替えない自慢”をした人たちはこぞって美人。不思議にそれで好感度が落ちたというイメージはない。えー私も私もという“見えない共感”を呼んだのかもしれないが、むしろ自分が女として最も不利になるかもしれないことを平気で言えてしまうことに“比類なきフェア”を見たからなのかもしれない。もちろんそういうリスクを犯せるのは、勇敢さか鈍感さか、どちらなのか分からないが。ただ、言わなきゃわからない事を言ってしまうのは、そこに後ろめたさがないから。とすれば、彼女たちは下着など替えなくても清潔な女なのか? とさえ思えてくるから不思議。少なくとも、潔癖症で自分だけキレイなのに公共の場は平気で汚す女より100倍清潔。人に迷惑をかけていないからだ。実際、その人たちは別に汚くは見えない。何か別のピュアさが際立ったりしてしまう。多分こういう事なのだろう。実は汚れた下着を着けているのに、当然毎日取り替えているふりをし、清らかな風情で生きている、表面を取り繕う美しさ自体がNGだということ。「本当の贅沢は裏にある」とのシャネルの言葉も、そこにつながってくる。下着にお金をかけると言う意味ではなく、人に見せない部分も美しい事が本当の美しさ。汚い部分を覆い隠した後ろめたい美しさは、美しさではないし、傍目にも不思議に美しく見えない。自分に嘘をつく美しさでは意味がないのだ。存在ごと偽物になってしまうから。綾瀬はるかを「下着のキレイそうな人」と言った人がいる。実際の下着がどうだという事ではない、いかにも嘘のない美しさを備えていること……そこが大事なのだから。

デリケートゾーンケアをしているかどうか?それは誰にも見せない身だしなみ。そこから清らかである事は、女の尊厳

突然だけれど、あなたはデリケートゾーンケアを習慣にしているだろうか? あるいはまたVIO脱毛をしているだろうか? 実は間もなく、している人としていない人が半々くらい?という過渡期にあると言われる。だからまだ、デリケートゾーンケアをやっているから清潔、という基準は生まれていない。ただこういう事は、あっという間に新しい価値基準が生まれてしまうはずだから、やるのが常識となる日も遠くはないのだろう。

デリケートゾーンこそ、人には見せない自分の裏側。「裏を大切にすることが本当の贅沢」というのなら、女のマストという事になるけれど、日本がデリケートゾーンケアで大きく立ち遅れたのも、日本の家庭には「そこは触ってはいけない、汚いから触っちゃダメ」という躾があったから。つまり日本の大人には、未だそこに自ら触ることへの罪悪感がある。だからデリケートゾーンケアも当初、そんな恥ずかしい事、そんなハシタナイ事はできないと言う反応だった。しかしこのデリケートゾーンケア、一度始めるともうやらずにはいられなくなる。そしてやっていない人がいるなんて信じられない、と言うふうにいきなり意識が変わるのだ。つまり、本当の意味で体の隅々まで、体の中まで美しいことが清潔感の証、と考える時代はすぐそこまで来ていると言う事…。

一方、VIO脱毛はもっと任意のもの。やるかやらないかは、良し悪しではなく価値観の問題。ところがこれも急速に新しい常識になりつつあるのは、不快感がなくなるのもさることながら、単純に“その方が美しいから”、という声もある。マドンナなどは、処理していることを視覚に伝える、際どくもスタイリッシュな写真をTwitterにあげているし、少々不謹慎な話だが、たまたま写真が流出してしまった人気女優の処理ずみのヌードは、まるで天使のようと絶賛された。欧米では8割以上の女性がすでに処理をしているとされ、何の処理もしていないのは、もはやエチケット違反のレッテルを貼られるほどに定着している。日本ももう後戻りができない状況なのだ。ただ、体毛をすっかり無くしてしまうことに関しては、やっぱりある種の倫理観を問う声も出てくるわけで、キャメロン・ディアスなどは、 全面処理してしまうハイジニーナ状態を「体毛は必要だから生えている。それを永久脱毛してしまうなんて人としてクレイジー」という批判を始めている。それもまた一理あり。“IO”は処理しても、“V”はきれいに整えて残す派が早くも逆に増えているのだ。

どちらにせよ今、アンダーヘアがやたら注目を浴びていて、レディー・ガガなどはわざわざVだけ残してグリーンに染めたことをアピール、アンダーヘアが自己主張の手段とまでなっているのだ。それだけ本質的な問題を抱える部位とも言えるわけで、Vヘアの有無についてはもう少し様子を見たいところ。デリケートゾーンもアンダーヘアも、下着以上にシークレット、かつ“女性”性における文字通りの核の部分。誰に対して恥ずかしいと言うのではなく、また世の中の常識がどうだからと言う事でも無く、女はその部分に対し自分自身に後ろめたくない生き方をすべき、そんな気がするのだ。もちろん執拗にこだわりすぎるのは妙だけど、このプライベートな部分に何をし、何をしないかに、「自分はどんな女なのか?が示されるはずだから。
 
少なくともデリケートゾーンのお手入れは、誰にも見せない“身だしなみ”。多分誰にも言わない“身だしなみ”。だからこそそこから清らかでありたい。女の尊厳みたいなところだから。極端に言えば、そこを清らかにしておく事が“内側からにじみ出る美しさ”を作る決定的な方法の1つであるのは、間違い無いのだ。

美容ジャーナリスト/エッセイスト
齋藤薫
女性誌編集者を経て独立。女性誌において多数の連載エッセイを持つ他、美容記事の企画、化粧品の開発・アドバイザー、NPO法人日本ホリスティックビューティ協会理事など幅広く活躍。「Yahoo!ニュース『個人』でコラムを執筆中。『”一生美
人”力 人生の質が高まる108の気づき』(朝日新聞出版)他、『されど”服”で人生は変わる』(講談社)、「The コンプレックス 幸せもキレイも欲しい21人の女』(中公文庫)など多数。

『美的』7月号掲載
文/齋藤 薫 イラスト/緒方 環

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